【2018個捨て・⑥】赤ちゃんがいると断捨離が進む!?

 毎日あちこちの引き出しを開けてはモノを引っ張り出してくるんですよ。

うちの乳児が。

 

最初は手をはさむと危ないからと、引き出しガードを装着してみたりもしました。

でもさ……、ぜんぜん追いつかないよねっ。

乳児の行動範囲はあっという間に広がり、対応は後手後手に回るばかり。それに木製の家具(しかもアンティーク調)とか、作り付けの家具にガードを付けてしまって、後でうまくはがせなかったら嫌だなあと躊躇してしまうわけです。

不可逆的な感じがするんですよ、唐揚げにかけるレモンと同じくらい(©カルテッド)。

 

そんなわけで、毎日方々の引き出しをひっくり返され、元に戻してはまたひっくり返され……と繰り返すうちに、はたと気がついたのです。

 

「あれ、これまた元通り仕舞っておく必要のあるものなのかな」って。

 

いままで収まっているものとして問題意識を持っていなかった様々なモノの存在意義に、改めて疑問を持ってしまった次第でして。あっちにもこっちにもあらお久しぶりっていう細々としたグッズたくさんしまい込まれていました。だから全出しって大事なんですねぇ。……というわけで。

 

♪How do you do?

 引き出しにつまった

 昨日までのガラクタを処分処分〜♪

 

哺乳瓶やキッチン用品、その他雑貨を11個

ふろしきなど布っぽいもの5個

おもちゃなど26個

計42点サヨナラしました〜。

 

2018個捨てを掲げているこのシリーズ、なんと3カ月目にしてまだ100個台という体たらく。このペースじゃ今年中に終わりませんっ(汗)。ものを減らすのってなかなか大変なんだなーと改めて思った次第であります。

年度の変わり目でもあることですし、ここらでエンジンかけ直しますよー!

 

<今週までの成果……167/2018個>

【2018個捨て・⑤】針、刃物はどうやって処分するのか?

どうやって捨てたらいいか分からないものってありますよね。

そういうものって、捨て方が分からない→まず調べないといけない→面倒くさくなって放置、のパターンとひどく相性が良いもので……。わたしにとって、この3カ月近く放置されていたものが「針」でした。

 

年末に裁縫箱を整理した際に錆び付いていて使えなくなっていた針が4本あったのでした。でも針って危なくてそのまま捨てられないですよね。

じゃあ、どうしたらいいんだろう?いわゆる針供養に出さないといけないのだろうか?そんな風に迷って放置していました。

 

が、結論を言いますと、普通にゴミとして出せるんですね。

自治体によって違うと思いますが、東京都の資料によると、陶器、ガラス、電球、鏡、刃物などは「燃やさないごみ」に分類され、注意書きにはこんな風に書かれていました。「ガラス、針、刃物などの鋭利なものは、ケガに注意して丈夫な容器や厚紙などに包んで『キケン』と表示して出してください」と。

きちんとカバーしてあれば普通に燃やさないごみに出せるんですね。

 

というわけで、ようやく懸案の針と、ついでにカミソリや果実ビンなど刃物やガラス類計10点を処分できました〜!

 

こうしてちょっと処分が面倒くさいものも、ひとつひとつまめにクリアしていくことで余分なものを溜め込まない住まいにしていきたいものです。

 

<今週までの成果……125/2018個>

【読書】主婦経験って本当に仕事に活きるんですか?――『専業主婦が就職するまでにやっておくべき8つのこと』薄井シンシア

 「家事や子育て経験がキャリアに役立つ」という文言にたまに出会う。たいていは育児中の母親に向けたメッセージの中にある。

「本当かな?」っていつも思う。大変な状況にいて、焦りを感じている女性を励ますためだけに言っているんじゃないかなって、何割引かで受け取ることにしている。

 この本もそんなメッセージを含んでいる。でも、それよりも何よりも「あ、仕事できる人ってこういう人だよね」って思った。ノウハウもののようなタイトルがついているが、むしろ著者の生きる姿勢や哲学のようなものが書かれている本だ。

 

専業主婦からホテルの副支配人に

 

著者は長女を出産後に専業主婦になったが、娘さんが17歳で独立したのを機に再び職探しを開始。“給食のおばちゃん”や会員制クラブの電話受付などを経て、五つ星ホテルの副支配人まで務めた凄腕の女性だ。なんといっても17年ものブランクがあってもその立場に就けるだっていうサクセスストーリーが目を引くのだけれど、この本が焦点を当てているのはそれ以前の専業主婦時代の話。

 

私は娘を出産後に専業主婦になった。決心した日のことはよく覚えている。まだ首もすわらない娘が、私の腕のなかで安心しきった表情ですやすや眠るのを眺めているうちに、突然ある思いが湧き上がってきた。

「この赤ちゃんを育てること以上に、私にとって大事な仕事があるだろうか」

(中略)私の仕事は広告会社の営業から専業主婦に変わった。

 

面白いのは、専業主婦になることを著者が「転職した」ととらえていることだ。仕事だから家事も育児も漫然とこなしたりしない。常に全力で真剣だ。必要な仕事(=家事)を書き出して効率的にできる動線を考えて動く。費用対効果を考えて家計を回す。分からないことがあれば何カ月かのスパンで基礎から学ぶ。着る服だってアレコレ迷わずに済むように黒一択。ヘアは手入れがラクなショートと決めている。

とにかく何につけても合理的で勉強熱心。そしてめげない。そういう人柄が伝わって来る。

 

主婦だけど、ただの主婦じゃない

 

ここまでできる主婦はなかなかいないという具体例もいくつもある。例えばウィーンに住んでいたときのエピソードだ。

当時、ウィーンの肉屋には和食に適した薄切り肉が売っておらず、困った著者はハムのスライサーを使って豚肉を切ってくれと肉屋のおじさんにしつこく頼み込んだそう。困ったおじさんは渋々肉をスライスしてくれたが……。話はこれで終わりではない。

翌日、料理した肉じゃがを持って再び肉屋を訪れた著者は店主に交渉を持ちかける。日本人はこんな料理を作るからスライス肉が欲しいのだ、自分の知り合いを何人も連れて来るから今後はスライス肉を置いて欲しい、と。

それからというもの、その肉屋は数少ないスライス肉を売る店として大繁盛。めでたし、めでたし。そんな逸話を著者は「お互いウィン・ウィンの関係を作った」と綴っている。もうね、まるでビジネスだよねっ!

そう、著者は専業主婦だったのだけど、主婦の器に収まっていなかった。そして、実は主婦の仕事もビジネスも地続きなんですよっていう、まさに好事例だ。

 

こんな事例を挙げると、「なーんだ、結局ごく稀にいるすごい人なんじゃない」って思う人も多いだろう。あるいは専業主婦でもカッコイイ再就職ができるのだと勇気をもらうためにこの本を開いた人にとってはガッカリなのかもしれない。でも、逆に言えば、仕事ができる人だったら、きっと主婦業だってこの人のように合理化したり工夫したりするよねって思った。

結局、一番のハードルになるのは、日本の企業が主婦を雇うことに消極的なことなんでしょう。このスゴイ著者でさえ、最初の職(会員制クラブの電話受付のパート)を得るのに苦労したそうなんだから。だからこそ、こんな例がもっと認知されるといいなあと思う。

 

産まない女はかくも傷ついている ――『ノンママという生き方』香山リカ

 

「産んだ女」が「産まなかった女」の本を続けて読むとは、どんな嫌味だと思われそうだけど、けっこう切実な興味を持っていまして。だって、もしかしたら自分がその立場だったかもしれないってけっこうリアルに思っているし、友人の中にも「子どもを持つこと」や「不妊治療」に悩んでいる(いた)人が何人もいる。他人事としてとらえるにはあまりにも身近すぎる話題なのだ。

 

■生殖医療の進歩がノンママを悩ませる

 

筆者は、さまざまな理由で子どもを持たない人生を歩んでいる女性を「ノンママ」と名付けた。そして現代は女性(または男性)にとって「子どもをあきらめることが難しい時代だ」という。

 

なかなか妊娠しにくくても顕微授精、人工授精、体外受精を行えば可能、40代後半の高齢出産も可能、凍結卵子を使えばさらに高齢でも可能、子宮がなければ代理出産が可能、卵子精子に問題があれば提供生殖細胞を使うことも可能……。法的にはまだ認められていないものもあるが、「可能」の項目はどんどん増えつつある。

「可能」の項目の増加で、子どもが得られて喜ぶ人が増えたのと同時に、「子どもがほしかったけれど、まあ、仕方がないか」と納得することができない人も増えた。

 

子どもが欲しいのになかなか授からないという人にとっては、しんどい時代なのだろうなと思う。手段がないなら諦めるほかないけれど、あればあったで「手をつくさなくていいのか」という迷いが生じる。しかも、そこには少なくはないお金の問題が絡んで来る。選択肢があるということが人を悩ませることもある。

 

■自分だっていつ地雷を踏むかわからないYo!

 

また、筆者はノンママに対するさまざまな言動がハラスメントになるのだ、と主張している。例えばこんな発言だ。

 

「こんな悪い時代、子どもを持たないのは正解ですよ」

「えー、40歳?子どもがいないときれいですね。ウチの妻とは全然違う。子育てに追われて髪もボサボサで」

「子どもがいないと自分のためにお金や時間を使えますよね、うらやましい」

「いいなあ、ヨーロッパ旅行か。私、旅行が大好きだったのに子どもができてから行けていないんです」

 

どう思うだろうか?

これはひどいハラスメントだろうか。それともこんなの悪意のないただの会話だよって言えるだろうか。

 

正直に言うと、わたしは最後のフレーズなんて言ってしまいそうだなと思った。自分なら「子どもを持たないのは正解」などと言ったりはしないが、「子どもができてから○○がなかなかできなくて」なんて会話はしてしまいそうだ。っていうか、たぶん過去に気付かないうちに言っている。きっと地雷、踏んでいたよ!だって事実だし。

 

勉強になりますね。

そう思うと同時に、こういう主張って自分たちの首を締めることにならないだろうかって思った。

だって、これを真剣に受け取ったら、ハラスメントになるかもってビビって普通の会話でさえぎこちなくなりそうだ。子どもの存在を想起させないように細心の注意を払って話さないといけないんでしょ?いやー、何を言えばセーフなのかわかんないわ。わたしだったら何も話せなくなってしまう。

 

それに、そう言ったら、マミートラックに追いやられた人の前で「仕事が忙しくて料理する暇もないんだよ」って言うのだってハラスメントではないか!

なんか窮屈だなあ。

 

まあ、なんというか、そこまで目くじらを立ててハラスメントだと糾弾したいわけではなくて、ちょっとしたことに傷ついたりするものなんですよねぇ、っていう感じの主張なのでしょう。ちょっと頭の隅にでもおいて、できるだけ人を傷つけない会話を心がけたいものです。

 

【2018個捨て・④】大物を処分する

 

ここ2〜3週間というもの、どうにもこうにも忙しくて、最低限の家事すらできたりできなかったりという日々でした。当然、断捨離のための時間もとれず……。

 

ですが、その合間に思い切って大物を処分しました!

それというのは、ズボンをかけるパイプハンガーと、もう何年も使っていないこたつ。

 

ズボンのハンガーはクローゼットの下半分に収まるので収納が増えてよかったのですが、服の総数自体が少なくなってきたので、わざわざ上下二段に掛けなくても普通に吊るせばいいのではないかと思いまして。空いたスペースに、いままで外に出ていた旅行用のトランクが収まりました。

 

こたつはもう何年も使っていなかったのですが、テーブルだけでも使うことがあるかなと思って置いてあったもの。でも、結局一度も使わなかった。いつか使うかも、の“いつか”って来ないんだなという分かりやすい例ですね。

 

大物を処分すると、数こそ少なくても目に見える面積で達成感がありますね。

あー、スッキリ!

 

<今週までの成果……115/2018個>

【読書】子どもがいないという不全感と開放感 ——『産まないことは「逃げ」ですか?』吉田潮

 もっと豪快でさっぱりした人なのかと勝手に想像していた。

「子ども産みません。だっていなくたって毎日こんなに楽しいもの。ひゃっほう!」……的な。

でも、実際にはじっとり悩んでいる(いた)様子がけっこう伝わってきて、子どもがいないことによる不全感って、かくも女を苦しめるのかと考えてしまった。そういえば「あさイチ」の有働さんも、子どもを産まなかったことについて語るときはけっこう辛そうにしていたな。

 

筆者は35歳を過ぎてから猛烈に“子ども欲しい病”にかかり、不妊治療も経験するのだけど授からず、諦めるに至った。一見すると不妊治療について書いた本なのかと思いきや、治療自体の話は本書の半分に満たないところで終わってしまう。これは、産まなかった(産めなかった)自分と折り合いをつけるまでの葛藤を書いた本だ。

 

本書で紹介された例から、子どもがいることのメリットやデメリットについて共感したポイントをいくつか挙げる。

 

「自分にかまうことに飽きた」

 

まずは子どもがいることのメリット。

「彼氏はいらないけど子どもが欲しい」と言っていた女性、それからイラストレーターの夫のSさんが同様の発言をしているので続けて引用する。

 

「もう自分にかまうのに飽きたんです。子どもができれば気がまぎれるというか、自分どころではなくなると思って」

  

「もうこれで自分に構わなくていいと思うとラクになった」

 

ほんと自分のことをアレコレ考えてしまうのって面倒。わたしも独身時代の最後のほうは、もう自分のためだけに生きるのはしんどい、頑張り続けるモチベーションが続く気がしないって思っていたかも。

子どもを持って物理的な自分の時間は減ったけれど、そのぶん余計なことを考えずにできることをやればいいんだと思うようになった。目の前のことに集中できるようになった。

 

それから、「親の目線を持っている」と感じた番組スタッフAさんの話。

 

もちろん、彼の性格的なものも大きいが、いい意味でいいかげんなのである。口うるさくあれこれ指示するのではなく、黙って見守る姿勢が身についている。不干渉で何か起きても受け流すのが上手なのだ。

 

うまく受け流さないとやってらんないよね!

特にイヤイヤ期を経験したりすると「待つ」「黙って見守る」ことが、最善にして最もエネルギーの無駄のない行為だって気付くこともある。子どもが飲み物をひっくり返したり、衣服をドロドロにしたり、イタズラしたりするのも、いちいち目くじらを立てていては気が持たないから「受け流す」。

 

「ちょっとキテレツな人」になれるか

 

次は子どもがいることのデメリットだ。

 

今は子どもがいない自由を堪能している。友達と旅行に出かけたり、ひとり思い立って、遠く離れた美術館へ行ったり、突然深夜上映の映画を見に行ったり。子どもがいないからこそできることがたくさんありすぎる。

 

確かに、「思い立って」「突然」一人で出かけることはできない。でも、パートナーと協力し合えば美術館も映画館も行ける。むしろ子連れだって行けたりもする。自由気ままとはいかないけれど、それってそんなに重要かな?子どもが育つまでの期間限定だし、制約があるからこそ感じる自由もあるよね。

 

母になれなかったことで、子どものお手本にならなくていい立ち位置を得られた気がする。ちょっと間違っていても、ちょっと道を外してもお手本にならなくていいし、倫理的に正しい道徳的な大人のふりをしなくてもいい。(中略)「ちょっとキテレツな人」になると、人生は本当にラクだ。

 

親だからって倫理的に道徳的な大人のふりなんてしなくてもいいと思う。自分が思ってもいないことを子どもに言ったところで説得力ないし、「母らしさ」「親らしさ」に縛られる必要なんて本当はないはず。

とはいえ、実際のところ「キテレツな人」になるのはためらってしまうかも。わたしだったら道を外れるようなことをする前にきっと子どもの顔が脳裏をよぎってしまう。「ちょっとキテレツ」くらいだったらいけるかな。むしろ、そうありたいものだわ。

 

「産んだ女」vs「産まなかった女」を越えて

 

最初のほうで「産まなかった自分と折り合いをつけるまでの葛藤を書いた本」と書いたが、筆者は執筆時点ではまだ和解できていなかったのだと思う。だからこそ、一冊を費やして「産まなくてよかったこと」や「産んでいない人にはわからないわよ」的なハラスメントの事例を集めて並べる必要があったのでしょう。

また、母親として生きる人のことを「主語が自分になっていない」(主体的に生きていない)などと多少批判的なトーンで書いている感じも気になった。こんなことを書くとマウンティングだとか言われそうだが、「産んだ女」VS「産まなかった女」の構図を作ってしまうことほど虚しいことはないよね。他方のことにまで口を出す必要はないでしょ。だって、双方の女は少し条件が違えば立場が入れ替わっていたとしてもおかしくはないんだから。

 

【読書】「育児はちっとも辛くない」とあえて主張するという決意。 ——『母ではなくて、親になる』山崎ナオコーラ

 

いつのころからか「育児は辛い」「大変だ」という主張が世の中に溢れるようになった。子どもは可愛い、でもしんどいのだ、そう言ってもいいことになったら誰もが気軽に声を上げるようになった感じだ。育児の喜びとともにある苦労を描いた本はいくらでもある。

 

作者は最近のそういった状況を踏まえて、あえて「育児?ぜーんぜん辛くないよ。楽しいばっかりだよ?」って主張することに決めていたのではないだろうか。

 

妊娠中に、「母ではなくて、親になろう」ということだけは決めたのだ。

親として子育てするのは意外と楽だ。母親だから、と気負わないで過ごせば、世間で言われている「母親のつらさ」というものを案外味わわずに済む。

 

「母ではなくて、親になろう」。

とってもいいタイトルだ。その主張を聞いてみたいと思わせる。

 

……なんだけどね。

 

実はあんまり面白く読めなかった。感想をひと言で表現するならば、

ヨシタケシンスケのほんわかしたイラストと合ってねえ!

って思った。もう少ししつこく書く。

 

「ちょっ、言い方!」って何度も思ったよ

 

作者の書きぶりにひっかかるところがいろいろあるんですよ。

例えば、こんな感じ。

 

妊娠生活は、大したことがなかった。(中略)腹が大きくなるのは、想像していたほどのすごい経験ではなかったし、創作意欲は刺激されず、「妊娠について書きたい」と思うこともなかった。

 

「帝王切開も立派なお産です」と反駁している文章をよく見かける。だが、私はお産じゃないと言われても、一向に構わない、と思った。そもそも、自分自身、お産じゃないと感じたのだ。

 

麻酔が切れて少しずつ痛みが出始めたが、それでも産む前に想像していたほどには痛くならなくて、「これなら難なく耐えられそうだな」と思った。

 

うーん、作家なんだから「大したことがなかった」で済まさずに何か書こうとしてみたらどお?

出産についても、実際そう思ったのかもしれないけど、読者としてはこんな感想を抱いてしまう。

こーの、強がりさん♡

 

これ以外にも、自然分娩をめぐって「『女の人は強い』『男には無理だ』などと、女性を称えるひとには、虫酸が走る」とか「母親っぽい服になんか、とらわれてたまるか」「保活というのは『○○活』の中で、一番くだらない」などと作者は主張している。その内容には概ね同意する。けれど、言い方がキツいもんだから、むしろわざわざ強い言葉を使わずにいられなかった作者の内面のほうに注意が向いてしまう。

 

で、極めつきはコレ。

 

今の時代、女性は強者だ。女性が優遇されている時代を生きている自覚を持ち、弱く可愛らしい存在である男性には優しくしてあげなくてはならない。

 

あるいは作者は自分が優遇されていると感じ、また強者であると思っているのかもしれない。でも、だからといって女性全体に話を広げてこう言い切ってしまうのはあまりに乱暴だ。「弱く可愛らしい存在である男性」にいたっては、もはや何を言っているのか意味がわからない。「女性はか弱く守られるべき存在である」と決めつけられるのと何が違うのだろうか。

 

夫ディスのクセがすごい

 

また、作者は夫の人ことを「尊敬している」といい、こんな風に表現している。

 

夫は見た目も性格も人に勝つ人ではない。一般的に言われているような「男性としての強さ」や「男らしい魅力」を備えていない。

 

 

夫は経済力も生活能力も低く、(中略)夫に「これを着な」「これを食べな」と服や食べ物を用意することに、喜びを感じた。

 

「夫は低学歴定収入で、背は高いがべつにかっこ良くはない」。だからこそ、結婚の際に夫の人の良いところをくどくどと説明したそう。そして産科入院中も夫にあれを買って来てくれ、これを買って来てくれと「指示した」という。

 

繰り返しますよ。作者は夫さんのことを尊敬しているのです。ここには書かれていない部分に魅力を感じているのです。自分が上の立場にいられる男性を選んだのかなあとか、「夫ディスだ」と感じてしまうのは読者の邪推というものです。そうに違いありません。

 

考えるな、感じろ!

 

思わず長々と書いてしまったが、もちろん共感する部分もたくさんあったのですよ。でも、全体の印象としては“論”が前に出過ぎているな、と感じてしまった。(そして長くなったので共感ポイントについては割愛しちゃう。作者ごめん!)

目の前に赤子がいて、初めての子育てをしているんだから、泣いたり笑ったり、心が思いっきり動かされた経験をそのまま綴ってもいいじゃないか。そんなのバカっぽいですか?ありきたりですか?でも、わたしはそういうのを読みたかったなと思ってしまった。理論武装するのではなく、むき出しの「ダメな母親のわたし」をさらけ出すほうが潔くて好きです。

それとも、もしかしたら作者自身、書くべき強い動機を持たぬまま書いていて、であるからこそ頭の中で話をこねくりかえしているのかしらと思ったりして。

 

そんな作者には、知る人ぞ知るこんな言葉を捧げたい。

 

Don’t think! Feel!!

 

これ、まだあんまり知られていない台詞なんだけどね。